ウルトラ植物博覧会つづき。






‘‘植物をハンティングすることが可哀想だとか、あるべき場所に置いといてあげるべきとか、生態系は大丈夫か、と浅はかな正義感でものを言う人がいる。まずは勉強してこい。先達たちが行ってきた植物にまつわること。世界の植物のこと。植物の流通の業界のこと。植物検疫のこと。毎日自分が食べている野菜のほとんどが海外の植物だということ。いずれにせよ、こうやって今日もとてつもない量の生花や野菜や果物や海を渡って行き来し、私たちの暮らしが成り立っているという事実もある。全世界の植物は、いずれの種も本能的に少しでも遠くへ子孫を送り、少しでも分布域を広げようとしている。果実を甘くさせ食べてもらうことで種を鳥に運んでもらったり、種に羽をつけて風に乗るように設計することも、固い殻に種を包んで海を渡るのも、みな植物が旅をしたいがための戦略である。それを知らずして後から人間が勝手に自然のなかに線をひいて、線の外からやってくる植物を‘‘外来種”と差別用語を使うやつは俺が許さない。人間みな海のむこうの植物の恩恵を受けている。植物はこうあるべきと人間主観で唱える人は感情の問題よりもむしろ知識の問題である。自然はもともと自由でボーダーレスで混ざり合いながら変化し続いてきたのだ。そしていま自分たちがいるこのビルがある場所も貴方がここに来るまで使った線路や道路も、植物を殺した上でできているものである。それが人間の営みそのものなのだ。”

西畠清順




(植物図鑑よりごく一部を抜粋させていただきました。)





愛にあふれた人だと思いました。




木の実、葉や茎、幹のかたち、色や匂い。


生きる場所、生き方、生きる長さ。


生かし合い、ころしあい、


種のなかに組み込まれた宿命と与えられるもののなかで


生きることをまっとうしようとすること。






ここに在った植物たちの、ただ美しいとか奇妙、不思議というだけじゃなく、


人間だからこそそれを見て起こる作用があるんだと思いました。







食物として栄養になるだけでなく、


育てる、観る、触る、匂いを嗅いで、


背景を想像したり、なんでこんなかたちなのか考えたり、感じたりしてこころを動かしたり


価値観を教えてくれたりもする。(植物にはそんな気ないかもしれないけれど)




人間としての植物との関わりかた。



人間と人間の関わりかた。



一人の人としての生きかた。









「仏手柑」

‘‘この不思議な形をした果実は、仏さまの手のようだと昔から言われ、「木の実はかならず丸い」と決め付けるひつようはない、ということを教えてくれているのかもしれません。”













































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